人生なるべく充実させたい人のための
仕事観、子育て観、人間関係構築法、不安や悩みの対策、
自分をなんとか好きになること、日常を新鮮にすること、
夢を現実化すること、ときには日記、を書いています。
そして
娘の在籍する石川県立大学で学祭があります(^^)
野菜など安く販売するそうです!
販売するそうです^^
舞鶴ツーリングに行くことになり、
学祭が終わる時間までに帰ってこれそうもなく汗
私のプロフィールを読んでくださった方に、
なぜ、
科学者から整体を始めることになったのか?
科学者の道をやめてまでも、整体をやろうと思ったのはなぜなのか?
と興味を持たれたることが多いので
今日はそれについて書いておきたいと思います。
もっとも、
もし私が男性だったら、
科学者をやめてまで整体を始めなかったような気はします。
慶応大学を出て整体をされている先生を知っていますが、
私よりずっと大きな規模で事業をされています。
もし私が男性で起業していたとしたら、
現在のように1人で自宅兼店舗で整体院を開くスタイルではなくて、
もっと規模の大きなことを考えていたのだろうと思います。
私は女性で、
子育てをしたいと思っていたし、
子供は3人欲しいと思っていたし、
家庭に根ざした生活も楽しみたい、と思っていたのでした。
でも旅行など行きたいところには行きたいし、
やりたいことをやりたい、
「世の中はこういうもの」と言われるがままに日々の繰り返しではなく
主体的で創造的な日々を生きたいと思っていました。
そういう前提の上で、
なぜ科学から整体に転職したか、
「その1」 は、たびたび語っている門学的な理由です。
生まれながらの門に合っていなかった。
つまり科学者に必要な修門がなくてつらくてやめてしまった。
10年ごとにめぐる時の門は、
小さい頃からずっと修門がめぐっていて若いうちはまだよかったけれど、
25歳から修門が弱まり35歳で消失。
30歳で独立しています。
「その2」は、
家が、あまりに学者一族なのでなってしまったという理由です。
祖父も父も教授で、先が見えてしまいました。
同じように研究したいとは思わなかったです。
教授と言ってもその多くを事務仕事に割くことになります。
学内政治もあります。
そういうのどうでもよかった。
「その3」は、日本は科学の土壌が痩せている、と判断したことです。
学会、業界によるとは思いますが、
日本の科学にあまり創造性が感じられませんでした。
ディスカッションをしても、
学会に発表しても、
本質的に研究を研究の質を高めるような質疑応答よりも、
重箱の隅をつつくような、
受験までのテストと同じレベルの質問が多く、
知識や知見の深さを感じない。
失望することが多かったです。
海外では、
外国の人は、
人に質問する時もその研究の良いところや考え方の良いところを褒めることから始める人が多かったです。
ケチをつけることから始める日本人に対して、
良さを認めることから始める外国人。
建設的な議論ができます。
これは科学だけのことではないように思います。
昔、クラシック音楽をやっていた時に、
フルートの世界的な演奏者の公開レッスンに行ったことがあるのですが、
フランス人のその奏者、
日本の学生の演奏をまず褒めるところから始め、
そこから指導に入り修正点を伝え、良くしていくレッスンでした。
演奏技術がまだ未熟でも、
学生を1人の演奏家として尊重するその姿勢に
感銘を受けました。
なので、もしも科学を続けるとしたら、
間違いなく何とか外国に行って海外で研究する道を探していたと思います。
しかし、
私は子育てや家族の生活も静かに楽しみ、
あまり社会の喧騒にわずらわされないところで静かに暮らしたい、
地味に、1人の世界を楽しみたい気持ちも大きかったので、
外国に行ってまで科学をしようという気持ちにはなりませんでした。
それは今回の人生でやることではないな、と。
私の魂には、最先端の科学に従事していた記憶というか感覚があります。
創造的で、刺激的で、新しい発見にワクワクし、
本当に頭の良い人たちとのディスカッションを大いに楽しんだような記憶です。
「知っている」感じがあって、
おなかいっぱいな感があるから、
もういいんです。
(過去世のような記憶については、あると言う人とない人と言う人がいます。どちらもそれなりの理屈に基づいていると思います。過去と未来も同時多発的に起きているという時間の捉え方をすると、過去世が順番に直線的に経験されているという見方にはならないでしょう。ですが、この人生で経験していないはずの記憶があるという感覚は、証明もできませんが、幻想だろうが何だろうが感覚があるんだから影響されているのは間違いないです。もちろんそれらの感覚を切り捨てることもできるのですが、1度の人生で経験できることなんてたかが知れているのだから違う人生の記憶があるほうが面白い。また、人生は1度きりと断言する人は、幸せに生まれてきて、あまり大きな苦労なく育ってきた人のような気がしています。当たり前になぜか備わっていたその幸せや能力がどこからきたかなんて深く考える必要もない人だと。)
「その4」は、
直接人の役に立つ仕事をしたかったという理由です。
公務員から起業した知り合いが「人からありがとうと言われる仕事をしたかった」と言っていましたが、同じようなものです。
直接、たくさんの人と接し、それも時間をかけて接するためホンネの話ができる、
そんな環境を手にできたことで、
子育てにもずいぶん役に立ちました。
「その5」は、
理屈よりも感覚に従いたいと思ったことです。
研究職は、
科学を「学ぶ」ことももちろん必要ですが、
科学を「創る」
つまり学問を「創る」側とも言えます。
何かを観測・測定し、
その事実から理論をつくっていくわけですが、
案外、
観測の正確さというのも厳密にやると難しく、
(不確定性原理などもありますし)
それでも技術と工夫を駆使して「測定」していくわけですが、
ここから理論を導き出すのがまたあれこれと
いろんな人がいろんなことを唱えていきます。
理論学者の人の学会発表が、
それ、実験事実と違うんだけど???
なんてこともありました。
そうして正確さというものを突き詰めていくと
とても時間がかかります。
私のやりたいのはそれじゃなくて、
今、役に立つことでした。
理屈は、
過去のデータから新たなことを「推測」するにはよいです。
しかし、推測は推測です。
やってみて検証しなければいけません。
それは、
自分で検証したことが一番信頼できます。
人によって検証の仕方や、導き出した答えが、
自分の目的と違っていることがあります。
なので専門家は「詳しい」かもしれませんが、
「正しい」かはわからないと思ってます。
自分で検証するか・・・
それも資料や設備がなければ限界あるので、
自分で納得いくまで考えたり、
正しいかはわからないけれど「この人の言うことを信じよう」と賭けるか。
まだ、
私の関わっていた理学部の分野は基礎科学なので、
純粋な議論ができていたと思います。
最近わかってきたのは、
医学や、もしかしたら工学の分野では、
資金源で研究結果が変わる、
論文の主張が変わることがあるらしいということです。
その研究には誰が資金を出しているのか?
そこを見てから判断するのです。
病院にできるだけ関わりたくないと思っているのは
そのような理由もあります。
考え方はそれぞれなのですが、
人任せな気持ちで医療を受けていると後悔することになる可能性を、
ずっと病気と戦い続けて亡くなった母と医療との関わりから学んだということに加えて。
その点、整体は、
こうでなければならないというものがなく、
開かれた技術です。
いろんな人が研究し、
日々、
さまざまな技術を進化させていっています。
目の前の人がどうすれば少しでも早く楽になれるのか?
そのことを考えている整体師さんがほとんどです。
利権もなく。
1対1の信頼で成り立っていて、
風通しはよいですね!
もちろん、
重篤な病気になってしまったら病院に行くしかないのですけど、
(長生きにこだわってないしそれでもなるべく行かないつもり)
病気と診断されるまでもない肩こりや腰痛、
その他の痛みや不快な症状をガマンしながら日常生活を送ることも、
人生の貴重な時間と体験の損失だと思っていますので。
そんなわけで、
私は今回の人生では科学の専門家は
一生かけてやるものではないという選択をしたのでした。
野心とかもありませんし。
いつ死んでも悔いのないよう生きるのです(^^)
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